私が大学に入ったのが1996年。巷ではデート商法や怪しいセミナーなどが横行していた時代で、私や私の周りの友人たちもそういった詐欺に引っ掛かって痛い目に遭ったことがありました。
ある日、高校のクラスメイトだった女子から電話がかかってきた。
大学に入って最初の夏休み、実家に帰省していたときのことです。リビングの電話が鳴ったので出ると、若い女性の声で「中園○○さんはご在宅でしょうか?」と、私あての電話でした。
「高校3年のとき同じクラスだった菊池(仮名)です。覚えてます?」
私はすぐに菊池可奈子のことを思い出しました。クラスのムードメーカー的な明るくてよくしゃべる女子で、少し短めにしたスカートから伸びる美脚が魅力的でした。
前置きもほどほどに、今わたし心斎橋のアートギャラリーに勤めているんだけど…と切り出した彼女。
「世界的に有名な画家の作品をたくさん展示したイベントをやってて、中園くんも来てみない?」
私は絵画に興味がなかったのと、暑い中わざわざ心斎橋まで行くのが面倒だったので断ろうとしましたが、彼女は私に話す隙を与えず早口でこう言いました。
「このまえ平井くん(仮名)も来てくれたし、水野くん(仮名)も来たよ。水野くんなんか20万もする絵を買って帰ったんだから」
平井と水野のことはもちろん覚えていましたが、とくべつ仲が良かったわけではなく、あまり口をきいた記憶もありませんでした。
「他のみんなもこれから来ると思うよ。べつに絵を買ったりしなくていいから見るだけでも見に来てよ」
菊池可奈子のどこか有無を言わせぬ口調に圧されてしまった私は、しぶしぶそのイベントに行く約束をしました。
「あさって2時、心斎橋のヴィトンの前で待ち合わせ。いいかな?いいよね?」
彼女は私のスケジュールなど一切聞こうともせず、一方的に場所と日時を伝えてきました。
菊池可奈子って、こんな押しつけがましい感じやったかなぁ…。私はどこかしっくりこないまま、彼女と会うことになったのです。
美人でスタイル抜群のお姉さんが現れた!
当日、少し早めに着いてルイヴィトンのショーウインドウの前に立った私は、あたりをきょろきょろと見まわしました。
菊池可奈子の顔は覚えていましたが、彼女のほうが私のことを覚えているかどうか自信がありませんでした。
幸い近くに立っている男性は私の他にひとりだけだったので大丈夫だろうとは思いましたが…。
当時はまだ携帯電話を持っていなかったので、相手が今どこにいるのかなど逐一確認することができなかったのです。
10分ほど経った頃、花柄のノースリーブのワンピースを着た綺麗な女性がこちらへ向かって歩いてきたのですが、どう見ても菊池可奈子ではありませんでした。
ところが、その女性は私の前まで来て立ち止まると、「中園さんですか?」と声をかけてきたのでした。
菊池可奈子のことしか頭になかった私はきょとんとして、「はぁ」とうなずきました。その女性は見るからに美人な顔立ちで、ワンピースの上からでもわかるくらいのナイスバディの持ち主でした。
「初めまして。○○アートギャラリーの新垣(仮名)といいます。よろしくお願いいたします」
彼女は名刺を手渡してくると、私の目を見ながらフフッと笑いかけてきました。私はまたしても「はぁ」とうなずくしかありませんでした。
「じゃあ、行きましょうか?」彼女にうながされ、私は慌てて「あの…、菊池さんは来ないんですか?」と聞きました。
「あぁ、菊池さんが担当だったんですね?彼女、今日は急用ができてお休みしてるんです」
そう言ってニコッと微笑むと、新垣という女性はいきなり私の腕をとり、恋人どうしのように体を密着させてきたのです。
この時点でおかしいと気づくべきでした。というか、菊池可奈子を名乗る女性から電話がかかってきたときから何となく変だなとは思っていたのですが…。
まだ一度も女性と付き合ったことのなかった私は、ナイスバディの美女に腕を組まれ、思わず動揺してしまったのでした。
気づいたら彼女の虜になっていた。
「暑いから、何か飲んで行こうか」
彼女に誘われるがまま近くのカフェに入りました。店内は洒落た雰囲気で、カップルや若い女性たちで賑わっていました。こんな店に来るのが初めてだった私は、緊張してあたりをきょろきょろと見まわしてばかりいました。
新垣さんはアイスコーヒーを注文すると、「中園くん、何飲む?」と聞いてきました。いつのまにか彼女の口調が変化していることに、私はこのとき初めて気づきました。
「カフェオレ…」なぜカフェオレなどと言ったのか自分でもわかりません。しかも店員に「アイスですか?ホットですか?」と聞かれ「ホットで」と答えてしまう始末。
「暑いのに、そんな熱いもの飲むの?」新垣さんにびっくりされ、自分でもわけがわからなくなり、おまけに店員にも変な目で見られました。
テーブルに向かい合って座り、カフェオレに口を付けた私は「熱っ」と声を上げました。「ハハハッ」と可笑しそうに笑う彼女。私はその笑顔に思わずキュンとしてしまいました。
新垣さんは色々と世間話を聞かせてくれ、私もだんだん緊張がほぐれてきました。彼女は時折、組んだ両手に顎を乗せ、私のほうへ顔を近づけながら話しかけてきました。
彼女と目を合わすのが恥ずかしかった私はつい視線を下げてしまい、そのたびに彼女の胸のふくらみが視界に飛び込んできました。
「今日はどんな絵を見たいとか決めてるの?」
「いえ、まだ…絵のことはあまりよくわからないので」
「最初はみんなそんなもんだよ。けど、行ってみたら感動すると思う。初めてのお客さんで、いきなり100万くらいの絵を買った人もいたよ。それくらい感動するから」
彼女はまた私のほうへ顔を近づけてニコッと微笑むと、テーブルの下で足を伸ばして私の膝のあたりをツンツンとしてきました。
店を出る頃には、私はすっかり彼女の虜になってしまっていました。
ラッセンの絵画をローンで購入!?
アートギャラリーは全面がガラス張りになった、どことなく近未来的なデザインの建物でした。1階はサロンのような場所で、あちこちに小さな円形テーブルが配置されていました。
入り口付近に赤色を基調にした小洒落たカウンターがあり、そこで若い女性が5人くらい、まるでガールズバーのスタッフのように立って出迎えてくれたのですが、みな美人ぞろいでした。
新垣さんに2階の展示場へ案内され、絵画を見て回りました。私たちの他に2組の若い男女の姿がありました。
新垣さんは私のそばに寄り添い、ときどき腕や背中に手を触れてきました。私は絵画に興味がなく、新垣さんの説明に相槌を打ちながら、彼女の胸やヒップラインばかり見ていました。
ひととおり見終わって1階へ降りていくと、サロンの隅のテーブルに案内されました。座って待っていると、新垣さんが40代くらいの小柄な女性を連れてきました。
「こちら、主任の小倉さん(仮名)です。今から中園さんに色々とアドバイスしてくださいます」
「小倉といいます。今日は私が中園さんを担当させていただきますので気になることがありましたら何でも質問してください」
小倉という主任はさばさばした感じで、言葉にまったく感情がなく、機械に吹き込まれた音声を聞かされているような印象を受けました。
とっさに何か嫌なものを感じ取った私は、この女には気を付けたほうがよさそうだと思い身構えました。
小倉は先ほど私が見て回った絵画の感想などを聞きながら、さりげなく購入をすすめてきました。
「お友達の水野さんは大変興味を持ってくれたみたいで20万以上する作品を即金で買って帰られましたよ。ねえ?」
小倉は私の隣に座っている新垣さんに同意を求めるように聞きました。新垣さんは私の背中に手を触れると、「そうよ。水野くん、すごい喜んでたよ。前からこんな絵を自分の部屋に飾ってみたかったって」
小倉が相変わらず機械の音声みたいな口調で絵画のアピールをしてきました。先ほどまでよりもグイグイくる感じがありました。
小倉は、水野が買ったという20数万円の絵画を積極的にすすめてきました。うちが提携しているローン会社なら審査も通りやすいから、学生さんでも購入できるとゴリ押ししてきました。
「うーん、でもわたしは、中園くんにはラッセンのほうが似合うと思うけどなぁ…」
新垣さんが首をかしげながらそう言い、私の太腿に手を触れてきました。
「余計なことを言うな!」私は心の中でツッコミを入れました。
この時点で私はもうすっかり目が覚めていて、この女どもに引っ掛かってはいけないと自分に言い聞かせていました。
しかし、私の太腿の上に置かれた新垣さんの手が徐々に股間のほうへ移動してくると、さすがにムラムラしてきたのでした。
「ちょっと、トイレお借りしていいですか?」
私はトイレの場所を探しました。新垣さんがすかさず立ち上がり、「こっちこっち、わたしが連れて行ってあげる」と言いました。
トイレに向かう途中、彼女は私の尻に手を触れてきて、「ラッセン、買ってみたら?絶対に後悔はしないと思うよ」と耳元に顔を近づけて言いました。
私は慌ててトイレに駆け込みました。個室に入りズボンとパンツをずらすと、案の定8割くらい勃起していました。
勃起がおさまるのを待って用を足し、もう絶対に騙されないぞ!と心に誓ってトイレから出た私でしたが、そのあと思いもよらない展開が待っていたのでした。
美女に囲まれた挙句に逃走!
先ほどのテーブルに戻ると、私の席の前に一枚の紙切れが置かれてありました。ラッセンの絵の見積書でした。
『クリスチャン・ラッセン ¥1,050,000』
「アホかっー!買えるかっー!」私は心の中で思い切りつっこんでやりました。
2階の展示場に飾ってあった大きなサイズのイルカの絵でした。版画ではあるものの、一枚一枚にラッセンの直筆が加えられた市場価値の高い作品だということでした。
「ローン会社に電話して聞いてみたんですけど審査のほうは大丈夫そうです安心してください」
小倉は早口で言うと、新たにもう一枚の紙切れを出してきました。売買契約書でした。
「このあたりでもう決めちゃったほうがいいよ。絶対に後悔しないから」
新垣さんが私の太腿をやさしく撫でてきました。しかし今度は平静を保ち、私は書類を小倉のほうへ押し返しました。
「これはちょっと買えないです。絵なんか買う気ないです…」
私がそう口にしたとき、それまで冷静だった小倉が急に眉間にしわを寄せ、「なんでよ!」と低い声で言い返してきました。私は思わずビクッとしました。
そのとき、後ろのほうから4、5人の若い女性たちがやってきて、「どうしたんですかー?」とにぎやかな声で話しかけてきたのです。先ほどカウンターに立っていた女性たちでした。
「中園くんがラッセン買うことに決めたらしいよ」
新垣さんがいきなりそう言うと、綺麗な女性たちが私を取り囲みました。
「えー、そうなんだぁ。すごーい!」「部屋にラッセン飾ってる男の人ってカッコイイ!」「わたしも見てみたーい」などと口々に頭の悪そうなセリフをほざき始めたのです。
「カッコイイー。あたし中園くんの部屋に遊びに行きたーい」
ひとりの女性が後ろから私の肩に両手を乗せ、顔を近づけてきました。
その瞬間、私の中で何かがプチっと切れる音がしました。
「帰ります!」
私は立ち上がると、周りを囲んでいる女性たちを押しのけてその場から立ち去ろうとしました。
「えー、なにー?どうしたのー?」「待ってよー、もうちょっと話しようよー」
鼻にかかった甘ったるい声を出して引き止めようとするバカ女ども。
私は速足でエントランスのほうへ向かいました。
「おーい、てめえ、ちょっと待てよー!」「無視すんなよ!戻ってこいよ、ボケー!」
本性を現したバカ女ども。
私は冷静を装いながらもちょっと怖くなり、全力疾走でギャラリーを飛び出したのでした。
なんでわかったん?
デート商法に引っ掛かり、100万円以上もする絵画を買わされそうになった私。間一髪でなんとか危機を脱したわけでしたが、それ以後、女性からの誘いにはかなり慎重になりました。
誰の仕業かはわかりませんが、高校の卒業アルバムや名簿が出回っているのでしょう。その後も何度か、あれと似たような電話がかかってきました。
当然すべてお断りしましたが、断るといきなり相手の女性がキレだして暴言を吐かれたことが一度ありました。
2年後、私はたまたま水野と会う機会があり、あのときのデート商法の話をしてみました。彼が20万円の絵画を購入したというのは、やはり事実ではありませんでした。
「おれにも菊池可奈子を名乗る女から電話かかってきたよ。でもすぐに本人じゃないってわかったから、一方的に切ってやった」
水野は相手の女性の声を聞いた瞬間、菊池可奈子ではないと気づいたそうでした。
「なんでわかったん?おれ、女子の声なんてみんな同じに聞こえてしまうわ」
私が言うと、水野はきゃははっと笑ってから、こう言ったのでした。
「おれ、2年のとき菊池と付き合ってたんやから」
「えー!そうなん?ぜんぜん知らんかった…」
驚いて声を上げた私。いま付き合っている彼女の声を、自分はちゃんと聞き分けることができるだろうかと、その時ふと考えてしまいました。